読みたいコト

〝あの町〟の短編小説
芥川賞受賞作家、高山羽根子さんの作品です。

読みたいコト 〝あの町〟の短編小説

text:Haneko Takayama
Illustration:Gao Yan

タイの人というのはしょっちゅう改名をするらしい。そのうえ名前が長くて発音が複雑だからか、『チューレン』と言って、子どものころからの呼び名というか、愛称らしきものでおたがい呼び合うんだそうだ。超未熟児だったから『おちびちゃん』と呼ばれ続けているいかついおじさんとか、お金に困らないように『バンク(銀行)ちゃん』と呼ばれている人、食べるのに困らないよう『ムー(豚肉)ちゃん』というチューレンの女性もいる。子どものころは悪魔に連れ去られないように、人間に思えない名前を付けるという考えもあるみたいで、サルとか犬とか、動物のチューレンがついている人もいっぱいいる。

プーちゃんのプーというのもチューレンなのだそうだ。意味はタイ語でカニのことで、タイでもカニはカレーの具に入れて食べたりするらしい。

「こんなに大きいカニ、タイで見たことないです」

と、プーちゃんはお店の前に置かれているタラバガニを見て興奮していた。そのカニは店の看板みたいに置かれているもので、一応は本物だけど、多分もう中身はない。私もこんな大きいタラバガニははじめて見た。たぶんこのあたりでもかなり珍しいくらい大きいものだ。

プーちゃんははじめて日本に来た。もちろん私とも初対面だけど、一年以上しょっちゅうSNSとか動画で通話しているので、はじめてという感じは全然しない。プーちゃんと私は同じミュージシャンのファンで、プーちゃんと一緒にここで開催されるフェスに来た。成田で待ち合わせて、羽田でいっしょに飛行機に乗る。

プーちゃんは初めての日本なのに、東京観光もできなかったし、こっちに来てもすぐに何もないフェスの会場に来て、フェスの間中宿では寝るだけだったから、ちょっとかわいそうな気がして、フェスが終って東京に戻る最後の日に、せっかくだからと繁華街でちょっとおいしい食べ物、つまりはプーちゃんの名前になっているカニを食べようということになったんだった。

プーちゃんは日本の歌にとても詳しく、パフィーという二人組が歌っていたカニの歌のサビの部分を振りつきで歌いながらはしゃいでいた。

メニューを開き、覚えたての日本語をスマホで調べていたプーちゃんが、

「北海道でもお米とれるんですか」

と驚いて訊いてきた。私もあんまり詳しくはなかったけど、広いから田んぼ位あるだろうねと答えたら、

「お米はあったかいところでしか育たないと思っていました」

という。そういえば、ロシアでお米を作っているという話を聞いたことがない。同じくらい寒いなら、北海道だってじゃがいもとか大豆とか小麦くらいしか作れないと思われても不思議じゃない。

「東北にも田んぼいっぱいあるから、品種改良とか、進化したのかもしれない。日本人はお米がないと生きていけないからね」

「こんなお魚が取れるなら、それでもう充分な気がしますけど」

「狩猟採集の恵みだけで生きる時代ってわけでもないしねえ」

と話しながら私は、むかしお母さんが子どものころに、日本が寒くてお米がとれなかったから、タイからたくさんお米を買ったと言っていたことを思い出した。いまの私たちはタイのお米をおいしく食べる方法をたくさん知っているし、タイのお米を買うとき日本のお米より高いお金を払っているけど、そのときの日本ではタイのお米が安くてまずいと言われてしまったらしい。

「あのときは本当に申し訳なかったなー、あれは日本人が美食だったわけじゃなくって、食べもののおいしさの種類を知らなかっただけだよ」

と、お母さんは残念がっていた。お母さんが子どものころとちがって、お店にはいろんな食べ物が並んでいる。マンゴーやアボカド、ナンプラーやパクチーなんて、むかしは特別なスーパーにしか売っていなかったらしい。今は家でもガパオを作るし、コンビニやスーパーのお惣菜でピロシキや生春巻きが並んでいたりする。

プーちゃんはたいていのお魚料理をおいしいと言って食べた。いかの塩辛さえ、

「タイにも似た味の食べ物があります」

と言っておいしそうにつまんでいた。やっぱり嬉しかった。最後に出てきた、北海道のお米のおにぎりは本当にびっくりするくらいおいしかった。おいしさのあまり、プーちゃんと私、ふたりでおにぎり片手にお店を飛び出して、叫びながら走りだしてしまいそうだった。掘りごたつの中で足をバタバタさせながらおにぎりを食べた。フェスで見たライブひとつずつの感想を話しながら、ずっと笑っていた。

「プーちゃんの国にもいきたいな。こんど、案内して」

というと、プーちゃんは、そんなに面白いところないですよー、と一瞬顔をしかめて、それからまた笑った。

高山羽根子/小説家。2010年『うどん キツネつきの』で第1回創元SF短編賞佳作、16年『太陽の側の島』で第2回林芙美子文学賞を受賞。20年、『首里の馬』で芥川賞を受賞した。