知りたいコト

うちの殿様、どんな人?

text:Yasushi Oishi
illustration:Toru Morooka

最上義光

山形県は、東の奥羽山脈と県中央部を南北に走る連峰との間にある三つの盆地と、日本海側に開けた庄内海岸地域で多くの人々が暮らしています。海岸地域は庄内地域、盆地は南から置賜・村山・最上地域と呼ばれており、戦国期には各地域に小領主が乱立していました。

庄内には平安時代初期の出羽国府とされる国指定史跡「城輪柵跡」があり、出羽の中心地でした。ここから南下して国道三四四号を目指し、同国道を右折。さらに国道七号で左折して新両羽橋を渡り、県道三八号に出て南下。長駆、鶴岡市都沢公園へ向かうと、公園の南に庄内地域を治めた大宝寺氏の居城尾浦城があります。大宝寺氏は内紛で弱体化しますが、それを好機と捉えたのが村山地域の最上氏で、その居点は国史跡に指定されている山形城でした。山形から庄内へは、羽州街道を北上後に三四四号を西進するか、寒河江街道・六十里越街道を北西に進むことになります。国衆たちは前者を中心に展開し、最上氏は彼らと対立していました。ちなみに最上氏は元来「山形」姓で、「最上」を称するようになったのは義光の時代でした。

山形城から羽州街道を北に向かうと、天童駅手前右側に天童公園が見えてきます。そこは最上氏に滅ぼされた天童氏の居城天童古城で、県内最大規模の堅牢な城でした。さらに北上し、奥羽本線村山駅を越えて県道二五号を左折、最上川を渡り西部街道を右折すると、村山市立戸沢小学校が左に見えます。その裏手に白鳥氏の旧城白鳥城があります。最後の当主長久は、義光に山形城で謀殺されたと伝わっています。

西部街道を長駆北上して県道三六号を左折、さらに北上を続け最上川にぶつかる県道三〇号を左折。大蔵村に入り、国道四五八号に接続して再び県道三〇号に繋がり、蛇行する最上川沿いにある西来院の北西には、最上氏分流の清水氏が居城とした清水城があります。ここは最上川の河港を押さえる拠点だったため、その重要性を認知した最上・大宝寺両氏の合戦の場となりました。

最上氏は置賜の伊達氏とも対峙します。伊達氏は、晴宗が一五四八年に陸奥国伊達郡から米沢城へ居点を移しました。長距離ですが、山形城から羽州街道―県道一〇一号―県道三号―県道二号を接続すれば、米沢城に行き着きます。また米沢城から八谷街道を三キロほど西進すると、河川を利用した要害で、晴宗の子輝宗の隠居城ともされる国指定史跡舘山城跡があります。伊達氏が置賜で力を付けてきたことがわかります。

最上・伊達両家は激しく争い、両者の境目には多くの城が築かれました。先述西部街道を白鷹町まで南下、県道一一号を右折。フラワー長井線四季の郷駅前で再度右折すると、左に鮎貝郵便局が見えます。その裏手に白鷹町指定史跡で鮎貝氏の築いた鮎貝城がありますが、同城はその典型です。鮎貝氏は最終的に伊達氏の一門となりますが、最上氏も伊達氏も、大名へと強大化していく中で、近隣の国衆を併呑・吸収していったのです。

大石泰史/歴史研究家。1965年生まれ。東洋大学文学部卒。静岡市文化財保護審議会委員・大石プランニング主宰。主な著書は『井伊氏サバイバル五〇〇年』(星海社)、『今川氏滅亡』(角川選書)など。