知りたいコト

うちの殿様、どんな人?

text:Yasushi Oishi
illustration:Toru Morooka

最上義光

神奈川県は旧国の相模国、さらには武蔵国の一部で形成され、前者が県西部、後者が県東部となっています。国府は現在の平塚市や大磯町に置かれ、県南部を東海道が走り、中世には幕府が鎌倉に置かれ、「武家の都」が築かれました。

相模国の国衆は戦国中期、小田原城の戦国大名北条氏に屈しました。北条氏の初代は伊勢宗瑞=後に北条早雲と呼ばれますが、彼の子氏綱が小田原に定住。豊臣秀吉に滅ぼされるまで、当地が政治・文化の中心となりました。現在小田原駅前に模擬天守がありますが、研究の結果、当時の小田原城の中心もこの付近と判明しました。城下を土塁や堀で囲んだ広大な「総構」も周囲に残っており、駅の北西・城北公園付近の「小峯御鐘ノ台大堀切」では堀底を散策できます。秀吉が北条氏討伐のために関東で最初に築いた石垣山城も、駅の南西四・五㎞ほどにあります。

小田原城南の国道一号を東進し、藤沢市に入り城南交差点を左折後に直進すると、大庭城址公園=大庭城が目前に広がります。城主は扇谷上杉氏の当主持朝の子朝昌でした。扇谷上杉氏は室町期、関東に君臨しましたが、北条氏によって衰退していきます。当地は扇谷上杉氏の最重要軍事拠点で、城には台形型に掘られた箱掘と底がV字状の薬研堀の堀が二〇以上、確認されています。戦国初期の城はあまり残されておらず、非常に貴重な城です。

大庭城の東を走る県道四三号を南に下り、小田急藤沢本町駅を通過後、国道四六七号に入って東進を続け、JR藤沢駅を通過して南藤沢の交差点へ。そこを左折して県道三二号に入り、海岸付近まで南下を続けて突き当たりを左折、国道一三四号に出ます。長駆東進し、鎌倉・葉山を越えて三浦市でさらに南下して、引橋の信号機から県道二六号で油壺入口を右折、油壺温泉キャンプパークへ向かいます。この近辺には三浦道寸・義意父子が、早雲との攻防のために籠城した新井城があります。道寸は、祖父が上杉持朝と伝わるほど扇谷上杉氏と関係が深く、三年もの間この城で早雲と戦いますが、永正十三(一五一六)年に討死。城も陥落して多くの家臣も討たれ、網代の海が遺体の血で染まって油のように見えたため、この地を油壺と呼ぶようになったとの伝承もあります。一部立入禁止区域もありますが、遺構は県内でも有数なほど良好に残っていて、堀や土塁もしっかりと確認できます。

北条氏は新井城の南の部分に手を加え、大改修を施して三崎城としました。城の大手を北条湾の港に向けて海に面した水軍の拠点として機能させ、曲輪を取り巻くように掘削された横堀を多用し、北条氏の城らしく仕上げました。城主は氏綱の孫で、江戸時代に大名として命脈を保った氏規でした。

相模国は、北条氏が最後まで支配を続けた〝本国〟であったため、北条方として残った城には北条氏の城の特徴が多く遺されています。

大石泰史/歴史研究家。1965年生まれ。東洋大学文学部卒。静岡市文化財保護審議会委員・大石プランニング主宰。主な著書は『井伊氏サバイバル五〇〇年』(星海社)、『今川氏滅亡』(角川選書)など。