知りたいコト

うちの殿様、どんな人?

text:Yasushi Oishi
illustration:Toru Morooka

筒井順慶

鹿児島県は、アルファベット「U」字を上下に反転させたような、鹿児島湾を挟んで西に薩摩半島、東に大隅半島、湾内に桜島がある形になっています。現在、薩摩半島中部の湾際に鹿児島城跡や県庁、繁華街等がありますが、鎌倉初期、島津氏は薩摩半島北西部の出水市に最初の城を築きました。そのため出水から薩摩半島へは、天草灘を右に見る国道三号線(薩摩街道)と山間を進む三二八号線が、大隅半島へは国道五〇四号線が伸びています。これらに沿って島津本宗家(守護家)から分かれた庶子が各地へ展開し、後に国衆となって多くの城が築造されました。

出水を三二八号で出発後、薩摩川内市内を南下すると、入来小学校の裏に国指定史跡清色城跡が見えます。入来院氏の居城で、シラス台地に掘り込まれる切り立った空堀が特徴の、南九州を代表する城の一つです。来た道を戻り、国道二六七号で西に向かった樋渡川付近には鶴ヶ岡城(同市)があります。入来院氏と姻戚関係にあった東郷氏の居城で、両家は川内川下流域へと進出し、島津氏の分家(薩州家)とぶつかりました。

入来院氏は薩州家と敵対していたため、別の島津家の分家である相州家と関係を深めます。相州家は川内から薩摩街道を南下し、国道二七〇号に入ってさらに下った南さつま市金峰町の亀ヶ城を居点としていましたが、二七〇号を少し北へ戻って国道二二号に合流した付近の伊作城(日置市)の伊作氏と行動を共にしていました。

相州家と伊作家は、伊作忠良の母常盤が相州家へ忠良を連れて再嫁したことで一体となりました。その際常盤は、忠良を次代の家督とさせることを条件にしたと伝わっています。忠良は儒教・仏教・神道に優れ、相州家の家督になってから弱体化していた守護家を助け、その後自身の嫡男貴久に本宗家を継がせました。のちに忠良の末裔が薩摩藩主となるため、彼は〝島津氏中興の祖〟と呼ばれています。

忠良が薩摩を統一できなかったのは、出水亀ヶ城の薩州家が、薩摩・大隅の数家の国衆と婚姻関係にあったからです。出水から五〇四号を南下し、国道二六七号との合流地点で北へ向かった伊佐市菱刈に居た菱刈氏、三二八号と合流する辺りのさつま町宮之城の祁答院氏、さらに五〇四号を南に進んで県道五五号を右折、湾岸手前の加治木城にあった肝付氏などが薩州家に与同していました。彼らは最終的に忠良以降の相州家の軍門に降りました。

加治木駅から湾岸に出て国道一〇号を左折し、東進して再び五〇四号に接続して一気に鹿屋市まで向かうと、国道の終点右側に鹿屋城が見えてきます。ここは、伊集院忠棟によって築かれましたが、その段階では相州家が大隅国の有力国衆たちを押さえ込み、薩摩・大隅二国を治めることに成功しました。

このように鹿児島の国衆たちは、島津本宗家と薩州家・相州家の動向に、大きく左右されていたのです。

大石泰史/歴史研究家。1965年生まれ。東洋大学文学部卒。静岡市文化財保護審議会委員・大石プランニング主宰。主な著書は『井伊氏サバイバル五〇〇年』(星海社)、『今川氏滅亡』(角川選書)など。