読みたいコト

〝あの町〟の短編小説
芥川賞受賞作家、高山羽根子さんの作品です。

読みたいコト 〝あの町〟の短編小説

text:Haneko Takayama
Illustration:Gao Yan

最初にその〝逃走〟を目撃したぼくは、じつのところ野球の試合というものを見たことがなかった。

──いや、正確に言うなら〝日本で行われるプロ野球の試合〟を〝野球場〟で見たことがないだけで、高校生の野球大会は、じっさい何度か野球場に入って見たことがある。一番の理由は値段が安いからだ。プロ野球の試合は割高だし(考えたら、それが商売なんだから当然なのだけど)、大学に入ってからこのあたりに住み始めたので、地元球団の思い入れというのもない。

この鬱蒼とした城壁のようなものに囲まれた野球場では、プロ野球とは別に、毎年、高校野球の全国大会が行われている。大人がやる野球と同じくらいかひょっとしたらそれ以上の注目を集め、野球場の名前がそのまんま大会の代名詞とされるくらい有名なものだ。ぼくはこの野球場の近くに住んでいるから贔屓目でそう感じるのかもしれないけれど、たぶん日本の高校生が出るスポーツの大会の中で一番有名なんじゃないだろうか。たとえばそこに出場したことのある投手が大人になり、どこかの新入社員になったとしたら、あっという間に社内全体に知れ渡り、社長を交えて飲むときや得意先に行くときもいちいち話のネタにされる程度には。

野球場のそばには高架道路が走っていて、その道路を越えた先にある広場の縁にはちょっとした食堂がある。ぼくは、ここで食事をすることがわりと多い。とりたててうまいメニューがそろっているというわけではないし、もうちょっと行けばもっとうまくてリーズナブルな食事がいくらでも食べられるような地域にも出られるのだけど、そのさほどコクもない醤油味のラーメンは、あんがいぼくの好みに合っていた。

ただここには面倒くさいことが一点だけある。今日は日曜日で、だから野球場では昼にプロ野球の試合があって、もうちょっとするとこの野球場から広場の向こうの駅に向かってどやどやと人が出てくる。これが、いったいこの野球場にどれだけ人が詰まっているのかというくらい、溢れてくるのだ。これにかち合うと厄介だった。都合の悪いことに野球というものは、終わりの時間がサッカーほどはっきりしていない。ひどいときには一時間以上のずれが生じるから、それまでにこの場所を過ぎ去ってしまいたい、と足運びを速めたときだった。

目の前を一台の、車、といっていいのかどうかわからない妙な乗り物がすうっと横切っていった。車輪がついているから自動車には違いないんだけれど、今まで見たことのある車のどれとも違っていて、ドアとか窓みたいなものがなく、中に乗っている人がまる見えだった。車体の全体の形はまるくて、白くて、赤い曲線のラインがぐるっと入っている。つまり、野球ボールのデザインだった。遊園地のゴーカートみたいな小さいその乗り物は、どんなに頑張ってもせいぜいふたりしか乗れないように思える。乗っているうちのひとり、運転手はたぶん女性だけれど、野球帽を深めにかぶっていてよく見えない。もうひとりは大きい男の人で、野球のユニフォームを身に着け、真剣な顔で、グローブをはめた自分の手をじっと凝視している。乗り物はすべるように広場の周囲に沿って大回りに、音もなく滑るみたいに動いている。そうして球場を背にした一点でくるっと方向を定めると、広場の一番長い対角線らしきところを一直線に進んだ。そのかわいらしい見た目から想像できないくらいに、スピードが上がる。ふいにガタガタ、と車体が揺れ、その長さの三分の一を残し離陸した。見た目はボールで、だから宙に浮いていてもまあまあ違和感がないものの、それでも翼のひとつもない乗り物があんなふうに飛ぶんだ。でも、飛行機だってあんなに重いのになんか飛ぶもんな。と妙に納得しながら見ているうちに、その車は六甲山方面の空、ぼくの視界から消えてしまった。

「なんであれが」

と、ふり絞られるような小さい声が聞こえたほうを振り返ると、魂を抜かれる寸前で踏んばっているふうな表情をして、ひとりのおっちゃんがその乗り物の消えた方向をじいっと凝視している。

「あれ、なんなんですか」

と、ぼくがたずねると、おっちゃんは、なんや知らんのかい、と小さい声で言ったあと、

「遠山や」

と、真剣な声色で答えた。熊本県の高校時代に打率四割四分、本塁打三十五本。投手としては十一ものノーヒットノーランを記録しているらしい。今はプロ野球の中継ぎ投手なる役割を担っていて、それは非常にプレッシャーのかかる役割を持った選手なのだという。おっちゃんはどうやら、乗り物のことではなくその中に乗っている人のことを言っているようだった。

「ていうか、あの乗り物はなんなんですか」

とぼくは聞き返す。

「なんやおまえ、リリーフカー知らんのか」

「で、その選手をなんでその、リリーフカー? っていうのは乗せているんですか」

「マウンドまで運ぶためやがな」

「えっ、プロの試合って選手がみんなあの小さい車に乗ってフィールドを移動するんですか」

「あほか、リリーフカーなんだから中継ぎ投手だけやがな。なんや、ほんまに野球観たことないんか、こんなとこにおってんのに」

「高校野球は見てますよ。でも、出ないじゃないですか、あんな乗り物」

「ああ」

おっちゃんはちょっと驚いた顔を見せて、

「そない言われてみたら、そうやなあ。プロ野球だけや」

おっちゃんが言うには、甲子園球場のブルペンはラッキーゾーンと呼ばれていた場所にあって、百メートル離れたマウンドまで移動するときの時間短縮や走ってけがなどしないように乗り物に乗って移動するようになったのだという。かつてはスクーターで後ろに乗せていたが、今はああいうカート型の最新式になったのだという。

「最新式いうても、飛ぶのは知らんかった」

「いや、どう考えても、飛べる必要なくないですか。どこ行ったんですか」

「逃げてしまったんかなあ。プレッシャー、とんでもないからなあ、中継ぎいうんは」

とおっちゃんはつぶやくと、ハイライトを咥えて火をつけた。たしかに厳しいときに出てくる投手なんて、登板をばっくれて逃げていってしまいたい気持ちにもなりそうだ。おっちゃんはずっと六甲山の方面を見つめている。気づくと、いつもなら球場から絶え間なく人が出てくるくらいの時間になっていた。

「試合、終わんないみたいですね」

「そらそうや、リリーフがおらんもん。十五分もすれば戻ってくるやろ。それがプロやし」

「変わりはいないんですか」

「なんやったかな、あの高知商業のルーキー……あいつがうまいことモノになればなあ」

と言い残しておっちゃんはよたよたと行ってしまった。

高山羽根子/小説家。2010年『うどん キツネつきの』で第1回創元SF短編賞佳作、16年『太陽の側の島』で第2回林芙美子文学賞を受賞。20年、『首里の馬』で芥川賞を受賞した。