
「人間の動きを一定条件で不自由にする。たとえば地面の水平を不安定に設定したり、思わぬ段差をつける、そうすることによって、ふだんとはちがった空間体験を与えるっていうのは、体験型の芸術作品としてどれくらいの不自由さまでがアリなんだろうか」
そう言いながら、コンクリートの壁に挟まれて細く狭くなった通路をすり抜けて歩くココロさんは、ふだん高齢者の福祉施設で働いている。施設内で食事や運動、生活にまつわるさまざまなことの補助をしたり、ときにはレクリエーションとして近所の公園だったり、美術館に行くこともあるという。
今回の休み、ぼくとココロさんでいつもよりちょっと遠いところにドライブしようとコースを決めていて、ぼくがこの施設に行ってみようと提案した。そのときココロさんは、その地名の「養老」という言葉をとても気に入ったらしい。
「このへんには『ようろうのたき』ってないのかな」
「滝はこの先だよ」
「あ、そういう名前の滝、本当にあるんだ」
「えっ、なんのつもりで言ったの」
「いや、お店のほうの『ようろうのたき』。せっかくだからこのへんにたくさんつくったりするんじゃないかなあって思って」
ぼくはお酒が飲めないけれど、呑み屋さんというものが好きらしいココロさんは「養老の滝」という本物の滝が実在するのを喜んでいた。たぶんココロさんは仕事柄か、長生きとか、お年寄り孝行みたいなものをひときわ縁起が良いものと考えている節があって、その滝の名前が関係する昔話がとても好きらしい。ぼくは、その昔話のほうは知っていたけれど、そういう名前のチェーン店舗の居酒屋さんがあることは知らなかった。
ココロさんは、自分はあんまり美術に詳しくはないけれど、と前置きをしたうえで、
「私は職業柄、どうしても、駅でも美術館でも車椅子がうまく使える道がつくられているかとか、施設の中でもそういう目で見てしまう癖があるからさ」
と考えこむココロさんが言いたいことは、なんとなくわかった。ぼくたちはこういう場所をすり抜けたり、ふらふら歩くことで不自由な自分を確認するけれど、ココロさんが仕事でいろんな人たちといっしょに行く場所は、美術館でも博物館でもいくつかの制限が出てしまうんだろう。ここは子どもだけでは入れない場所だとか、これは何センチ以上の人しか乗れない遊園地の乗り物みたいに、一定の人に向けた体験をあたえる施設としては多少は仕方のないことなのかもしれない。山登りでも、スカイダイビングでも、人の経験と空間の共有というものは、どうしてもそういうところがあるのだと思う。歩く地面が歪んでいると不思議な気持ちになるけど、その不自由さを楽しむことができるぼくやココロさんみたいな人がいるいっぽうで、その不自由さが直接いのちに関わる人もいる。
公共の場所とか、空間の共有とか、ぼくたちは大人になってからいろんなことを経験して、それによって考えかたが少しずつ変わっていった。たぶん、子どものころには同じようだったぼくとココロさんの考えかたも、いろいろ経験した今のほうがいくつも違いがあるだろう。
このあたりにはレジャー施設がいくつか集まっているみたいで、小さい遊園地やゴルフ場みたいなものもあった。
「このへんにはそういうお店は少ないんじゃないかな。車で来る人が多いだろうし」
「あ、でも、なんかビールかなんか売ってるよ」
ココロさんはそういうと売店のほうまで走って行く。先には、グリーンのガラス瓶が並んで売られていた。
「あ、これソフトドリンクだー」
ココロさんの声がはっきりと落胆したことに、ぼくはおもしろくなってしまった。
「でも、まあ、いいか、ふたりで飲めるしね」
でもすぐココロさんは明るく言って、二本買った。レトロなデザインのラベルは、最近復刻されたもののようだった。聞くと、昔はすごく人気があって売れていたらしいのだけど、いっとき廃業していたのを最近になってレシピが発見されて、また作って販売しているのらしい。美味しい水がわく場所なのだから、それをサイダーにして売っていたということなんだろう。よく冷えたサイダーは、このシチュエーションのせいだろうか、なんとなくふだんと違って楽しい味がした。
ココロさんは緑色のガラス瓶に直接口をつけてサイダーを飲みながら、まるで酔っているみたいにふらふらと歩いている。それを見ながら、さっき体験したあの空間の不安定さというものは、酔っぱらっているときの感覚に似ているのかもしれないな、と思った。といっても、ぼくはお酒が飲めないけれど。
高山羽根子/小説家。2010年『うどん キツネつきの』で第1回創元SF短編賞佳作、16年『太陽の側の島』で第2回林芙美子文学賞を受賞。20年、『首里の馬』で芥川賞を受賞した。